
美しい自然にあふれた軽やかなおとぎ話
今回は 梨木香歩さんによる温かな物語、『岸辺のヤービ』を紹介します。梨木さんの他の代表的な作品、『西の魔女が死んだ』や『りかさん』などと比べると、本作はより軽やかでおとぎ話的な世界観を持っているように感じます。
主人公のヤービは、長い耳と丸い目を持ち、ふわふわの毛に包まれた、二本足で歩くハリネズミのような小さな生き物で、マッドガイド・ウォーターという場所の川のほとりで仲間たちと暮らしています。 そしてこのお話の語り手である「うたどりさん」は、ヤービたちの住む川辺からほど近い寄宿舎学校の先生をしています。
うたどりさんとヤービが出会うきっかけとなる小さなエピソードからはじまり、ヤービが家族と過ごす日常、そしてヤービたちの小さな冒険を、うたどりさんが伝え聞いた形で語ってくれています。
自然への細かな観察眼と敬愛の心が感じられる作品
本作にはヤービたちの他に、カヤツリグサ、カワガラス、ルリボシトンボ、水薄荷の花のブーケなど数えきれないほどたくさんの生き物や植物が出てきます。いたるところに梨木さんの自然への細やかな観察眼と敬愛の気持ちが感じられます。
知らないものが出てくるたびにどんな姿をしているのだろう、色はどうだろう、と調べながら読みすすめてみるのも楽しいです。
「ほんとうに自然は、なんという職人なのでしょう」
うたどりさんが湖に浮かべたボートの上で読書をしながらつぶやくこの言葉は、梨木さんの心のうちのそのものなのではないでしょうか。
人間とは異なる視点で世界を見つめるヤービの姿
「同じ生き物どうしだもの」という言葉も何度も出てきます。大きな自然の仕組みの中で生活するヤービたち。違う種族であっても、同じ地球に生まれたもの同士、どちらが偉いということなく 共に生きていく姿が書かれます。天気や季節の移ろいを全身で敏感に感じ取り、人間とは異なる視点で世界を見つめるヤービの姿が印象的です。
お話の根底には、自然との共生や異なる価値観の尊重といったテーマが据えられているように思いますが、決して重くなることなく、うたどりさんのやさしい語り口でユーモアを交えて描かれています。
桜蔭中の入試問題として出題されたことも
ゆったりと読みやすい行間と挿絵のおかげで、低学年からも読める本という印象ですが、実はこのお話は2016年に桜蔭中の入試問題として出題されています。
取り上げられたのは、ヤービが両親から伝え聞いた話を回想するシーン、そしてヤービの父親と叔父さんが「ものの名前」について語り合うシーンです。当時の受験生は、人間以外の生き物が主人公の物語がでてきて驚いたかもしれませんね。
時に哲学的な問答が繰り広げられる
一見かわいらしいファンタジーのような印象を受けますが、ヤービたちの会話は時に哲学的な問答をしていることもあり、やり取りの内容を丁寧に把握することが必要な問題でした。ものの名前の在り方というような、価値観の違いや言葉の多義性に注目させるという点でも、学校が出題した箇所になるほどと感心してしまいます。
挿絵でも世界観をたっぷり楽しんで
そして、小沢さかえさんの表紙絵や挿絵が、この物語の世界をより豊かにしてくれています。深い青緑の表紙には森の中で枝に腰掛け微笑むヤービの姿が描かれ、ヤービの生きる不思議で優しい世界観が表れています。シンプルながら温かみがある絵からは、ヤービたちの暮らしや自然の風景が生き生きと伝わってきます。
梨木さんの作品は、言葉だけでなく、こうした視覚的な要素も含めて世界観がしっかり作り込まれています。この本も、文章と絵の両方が合わさることで、よりいっそうヤービたちの世界に入り込める一冊になっている ように思います。
『ヤービ』が登場する他の作品も楽しんで
発刊から10年が経ち、2019年夏には2巻目の『ヤービの深い秋』、2025年2月には3巻目となる『ヤービと氷獣』が刊行されています。ぜひ続編もあわせてお楽しみください。子どものころに出会った小さな幸せな世界をもう一度思い出させてくれるような、優しくて奥深い物語です。